矢野正の歴史(学生時代)


  1953(昭和28)年:福岡県北九州市八幡西区に生まれる。






一番可愛らしく見えるのが私です。でも、
雑種ですから年月が経つごとに変貌していくのです。
小さい頃おやつを買うためのお金が欲しくて、
母親の財布から失敬したのが見つかり、
父親にこっぴどく叱られたことがありました。
以来ずっと警察が恐いです。








私の原点です。
おゆうぎ会以来、
人前に出ることが平気になりました。
ちなみに、狼のお面は父親の手作りです。
右写真中央の三宅ミヱ子先生が、私に狼役のチャンスを与え、原点を作ってくれた大恩人なのです。
コロナ禍まで、数年に一度博多でデートしておりましたが、
2021.11.09永眠されました。
心からお悔やみ申し上げます。


西




小学校時代は、そこそこ勉強が出来て、そこそこスポーツもできる「人目を気にする」優等生でした。 でも頭が固くて、”月”の観察をしたのに、見たままに弧を描けなくて、随分悩んだ記憶があります。 私たちの時代はソフトボールが盛んで、明けても暮れてもボールを追いかけておりました。
時々、理由は不明ですが「人生はつまらん」と思っておりました。


西




中学校時代も、勉強をしなくてもそこそこ出来たし、生徒会の役員をやっておりました。 陸上部に入っていたのですが、自信を無くして辞めようとした時、俵専次先生が親身に相談に乗ってくれました。
あの時辞めていたら、何をやっても中途半端な男になっていたかもしれません。
先生には感謝しております。
初めて『喫茶店のカレー(コーヒーではなく)』の味を教えてくれたのが、
国語の
福山先生
大学に入学後も、
町田君という幼馴染と夜遅くまでご自宅にお邪魔して、人生について教えて頂きました。
2013年、約40年ぶりに再会できました。






高校に入ってみると「俺程度の奴はざらにいる!」と、少しショックで、かなり肩の力が抜ける。
新聞部に籍を置いたこともありましたが、いわゆるノンポリの高校生活でした。
そんな中でも、2年生の体育祭は少し燃えました。
一応リーダーシップを発揮したらしく、当時の首相になぞらえ『人事の矢野』と言われておりました。
そのイヴェントがきっかけで
安高澄夫君と仲良くなれたのです。
  1972(昭和47)年:福岡県立東筑高等学校卒業
  1972(昭和47)年:立命館大学産業社会学部入学






大学は社会科学という訳のわからん学問を極めるために、立命の産業社会学部を選びました。
当時は偏差値もさほど高くなく”アホの産社”と呼び合っていましたが、いい大学、いい学部を選び、良き友人に恵まれました。
愉快な仲間は切りがないので、お世話になった方々を紹介します。
まず、従兄弟の
前野進氏
「車寅次郎」のような人なのですが、苦労して独立し、経済的にも精神的にも随分お世話になっておりました。
(その彼も、コロナ禍で知らないうちに亡くなっていました。お線香あげに行くことも出来ておりません。)
更に
奥様を観察していると、つくづく『男は奥さんで決まる!』と思ったものです。
奥様の弟である正志さんにも、下宿先を紹介して頂き、随分お世話になりました。
笠さんご夫妻。
私の友人のご両親で、本人が不在でも誰かしらが泊めて頂き、美味しい食事をご馳走になっておりました。いくら感謝しても、感謝しようがありません。
いつまでも元気で居て欲しかったのですが、パパさんは亡くなりました。
ママさんとは、時々携帯メールで文通しております。
  1976(昭和51)年:立命館大学産業社会学部卒業





父親:現在の私のルーツは何と言っても父親です。
   私は父親似だったものですから、その昔は随分反発したものです。
   社会的な地位や名声には縁がなかったですが、
   父の生き方には共感できるし、感謝もしております。
   父は98年に亡くなりましたが、私の目標でもあります。
   がんと闘うベッドの上で受講者の感想ラベルを読んでくれて、
   「お前もいい仕事をしているなぁ」と言ってくれました。
母親:性格的に父親とは違い、喜怒哀楽を表に出さず、
   黙々と私たちのために尽くしてくれました。
   私学に通う私のために初めて仕事に出てくれて、随分長く頑張ってくれたのです。
   両方の母親と4名で、北海道から宮古島まで家族旅行を10年ほど続けることが
   出来ましたが、
2021.05.25 99才で永眠しました。
   迷惑ばかりかけてしまいましたが、少しだけ恩返しも出来たかな、
   と勝手に思っております。


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