矢野正の歴史(学生時代)


1953(昭和28)年:福岡県北九州市八幡西区に生まれる。






一番可愛らしく見えるのが私です。
でも、雑種ですから年月が経つごとに変貌していくのです。
小さい頃おやつを買うためのお金が欲しくて、
母親の財布から失敬したのが見つかってしまい、
父親にこっぴどく叱られたことがありました。以来警察が恐い!!








私の原点です。
このおゆうぎ会以来、
人前に出ることが平気になりました。
ちなみに、狼のお面は父親の手作りです。
そして真中にいる三宅先生が、私に狼役のチャンスを与え、原点を作ってくれた大恩人なのです。
現在も、一年か二年に一度は、
博多でデートしております。


西




小学校時代は、そこそこ勉強が出来て、そこそこスポーツもできる「人目を気にする」優等生でした。 でも頭が固くて、「月」の観察をしたのに、見たままに弧を描けなくて、随分悩んだ記憶があります。 私たちの時代はソフトボールが盛んで、明けても暮れてもボールを追いかけておりました。
時々、意味もなく「人生はつまらん」と思っておりました。


西




中学校時代も、勉強をしなくてもそこそこ出来て、生徒会の役員をやっておりました。 陸上部に入っていたのですが、
自信を無くして辞めようとした時、
俵専次先生が親身になって相談に乗ってくれました。
あの時、辞めていたら何をやっても中途半端な男になっていたかもしれません。
先生には感謝しております。
初めて『喫茶店のカレー(コーヒーではありません)』の味を教えてくれたのが、国語の福山先生
大学に入ってからも、
町田君という幼馴染と夜遅くまでご自宅にお邪魔して、人生について教えて頂きました。
2013年、約40年ぶりに再会できました。






高校に入ってみると「俺程度の奴はざらにいる!」と、少しショックでちょっと安心。
一時期新聞部に籍を置いたこともありましたがいわゆるノンポリの高校生活でした。
そんな中でも、2年生の体育祭は少し燃えました。
一応リーダーシップを発揮したらしく、当時の首相になぞらえ『人事の矢野』と言われておりました。
そのイヴェントがきっかけで
安高澄夫君と仲良くなりました。
1972(昭和47)年:福岡県立東筑高等学校卒業
1972(昭和47)年:立命館大学産業社会学部入学






大学は社会科学という訳のわからん学問を極めるために、立命の産業社会学部を選びました。
当時は偏差値も低く”アホの産社”と呼ばれておりましたが、いい大学、いい学部を選び良き友人に恵まれました。
愉快な仲間は切りがないので、お世話になった方々を紹介します。
まず、私の従兄弟の
前野進氏
ちょっと「車寅次郎」のような人なのですが、苦労して独立されて、経済的にも精神的にも随分お世話になっておりました。
更に
奥様を観察していると、つくづく『男は奥さんで決まる!』と思ったものです。更に、奥様の弟である正志さんにも随分お世話になりました。
笠さんご夫妻。
私の友人のご両親で、本人が不在でも誰かしらが泊めて頂き、美味しい食事をご馳走になっておりました。いくら感謝しても、感謝しようがありません。
いつまでも元気で居て欲しかったのですが、パパさんは亡くなりました。
ママさんとは、時々携帯メールで文通しております。
1976(昭和51)年:立命館大学産業社会学部卒業





父親:現在の私のルーツは何と言っても父親です。
   私は父親似だったものですから、その昔は随分反発したものです。
   社会的な地位や名声には縁がなかったですが、
   父の生き方には共感できるし、感謝もしております。
   父は98年に亡くなりましたが、私の目標でもあります。
   がんと闘うベッドの上で受講生の感想ラベルを読んでくれて、
   「お前もいい仕事をしているなぁ」と言ってくれました。
母親:性格的に父親とは違い、喜怒哀楽を表に出さず、黙々と私たちのために尽くしてくれました。
   私学に通う私のために初めて仕事に出てくれて、随分長く頑張ってくれたのです。
   この母にはいまだに頭があがりません。
   親孝行ができるまで、ずーっと元気で居て欲しい存在です。